ご自宅でワンちゃんや猫ちゃんを飼っている方には、
分かると思いますが、
彼らの我儘な行動、例えば、
「散歩に連れてって!」
「お腹すいた、ご飯まだ?」
「ねぇ、遊ぼう!」
「あー、つまんないな、いたずらしちゃえ!」
「寒いから布団に入れて」
という事にたいしては、多くの飼い主はの方は、
「しょうがいな・・」と言いながら、許容していると思います。
家のウィルも、お昼が近くなると、
人が仕事をしていても、
「ねえ、ねえ、そろそろご飯にしよう!」と誘います。
また、夜気持ちよく寝ているのに、
人を顔をガリガリして起こし、布団に入ってきても、
「眠いのに・・」と思いながらも、入れてやります。
躾が悪いと言えば、悪いのですが・・・・。
ところが、こんな我儘が、
子どもだったり、親だったり、パートナーだったりすると、
たまに、「ムカッ」と来ることもあるのです。
臨済宗のお寺のご住職で、作家の玄侑宗久さんが書いた
「禅的生活」という本があり、そこに、名前は忘れたのですが、
ご住職が飼われていた、犬と猫の話が、悟りの境地を説明
するために、ところどころに出てきます。
彼らには、邪心や謀などが無く、
常に己の向くまま、自由に生きている。
ある意味で「空」であり、「無」であるというのです。
これこそ、人が悟りを開いた境地なのでしょうが、
彼らは、禅などの修行をせずに、すでにその境地に達して
いるのではないか、みたいな事なのです。
つまり、心の中に、何も無い状態だから、
人にとって、どんな我儘な行動を取ったとしても、
人がそれを許容してしまうのではないのか?と考えるのです。
これを突き詰めると、それこそ「禅問答」になってしまいますが、
何も無い状態こそ、人が目指すべき悟りの境地だと思うのです。
でも、人は誰でも、生まれた時に、
悟りの境地にいると思うのです。
だから、赤ちゃんに対して、だれもが笑顔になり、
その行動を許容する事が出来るのです。
ある意味で、まだ神様の状態に近いからだと考えるのです。
(なかには、赤ちゃんの行動にイライラする人もいますが。。)
それが、半年経ち、一年経つうちに、
様々な経験をし、少しずつ人間になっていきます。
人間になると、欲が芽生え、個性が生まれてきますが、
それが、生まれたばかりのように我儘し放大をすると、
側に居る人を、イラつかせたり、
怒らせたりする事になってしまうのです。
それは、赤ちゃんが成長した証でもあるのですが、
それに伴って、失われたものがあるからです。
ただ、人はこの失われたものを、
ある時期が来た時点で気づき、
(なかには一生気付かない人もいるようですが、)
取り戻そうと努力をしていくのです。
それが、禅の心である、空や無の心なのです。
釈迦の教えでは、人は一生かけてこの境地を目指すのですが、
そんな努力も無しに、その境地に達する事の出来る、
犬や猫には、まったく敬意を表したくなります。
さっきまで、我儘を言っていたウィルも、
今は寝息を立てて夢の中です。